戦国時代

武田信玄から”陰の任務”を背負った異能集団「黒川金山衆」

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攻城法の一つに「金堀り攻め」という戦法がある。

南北朝時代から姿を見せはじめ、戦国期に多用された攻城法だ。

 

金堀り攻めという坑道作戦

工兵隊に城外からトンネルを掘らせ、城内の水の手を切ったり、郭を崩したりする戦法で、時には坑道から突撃部隊を城内へ送り込んで攻め入る例もあったようだ。

工兵隊の中核をなすのは、金山衆と呼ばれる人々である。

彼らは、鉱山経営やその開発を生業とするいわゆる山師集団で、それぞれに多数の交付を抱えている。

そんな金山週が、城攻めの時には工兵隊の下士官に早変わりして坑道作戦を指揮するのである。

 

戦国大名の金山開発

全国の戦国大名は、実力で切り取った領国を豊かにするために、新田開発・治水事業・商人の保護のほか、その多くが鉱山開発にもたいへんな力を注いだ。

特に甲斐の国(山梨県)の武田信玄の金山開発は有名であり、その領国には主な金山だけで、甲斐国に黒川金山(塩山市)・湯之奥金山(西八代郡下部町)・早川金山(南巨摩郡早川町)・駿河国(静岡県東部)に富士金山(富士宮市)・安部金山(静岡市)・信濃国(長野県)に川上金山(南佐久郡川上村)などがあった。

信玄はこうした金山採掘を盛んに奨励・保護して諸山の金山衆から大量の金を上納させて、その大金を持って大中小の金貨を作ったのである。

 

この金貨はポルトガルのコインを模倣した戦国初の定量金貨で、領内に流通するまでにはいたらなかったが、贈答や報償に盛んに用いられて時には戦費に当てられた。

甲斐国が山がちでで米があまり取れなかったにもかかわらず、信玄が天下をうかがえるほどの大大名に成長できたのは、この金の力があればこそだった。

新月破領内の金山衆を戦場へ動員するのを常とし、彼らに陣を構築させて必要に応じて金堀り攻めを命じた。

 

武田家金山衆の主力「黒川金山衆」

武田氏の金山衆の主力となったのは、黒川金山の山師たちである。

黒川の金産出量は多大で、金山の周囲には鉱山関係者の屋敷がびっしりと並び、当時は黒川千軒と呼ばれるほどの大規模な町に発展していた。

信玄が最初に金山衆を戦いに用いたとされるのは1561年の松山城(埼玉県比企郡吉見町)合戦であり、松山城は上杉謙信の属将・上杉憲勝が守っていたが、この城を剥奪すべく北条氏康が大群で包囲し、小田原の北条氏と透明を結んでいた信玄も城攻めに参加した。

しかし、松山城は険しい山の上に建ち、大きな井戸を持っていたので、なかなか落城せず、グズグズしていれば越後国(新潟県)から上杉謙信が加勢に来るだろう。

そこで、金堀り攻めを決意した信玄は、率いてきた金山衆を使って坑道を穿ち、まんまと二つの櫓を掘り崩すことに成功したのである。

驚いた城兵は、坑道に大量の水を流し込んで坑夫を溺死させ、穴への一斉射撃を行って多数を討ち取るという反撃を見せた。

そのため、金山衆は壊滅的な打撃を破り、一時は撤退を余儀なくされたが、謙信がもう近くまで来ているという噂が陣中に流れ始めたことで、信玄は意を決して金堀り攻めの再開を金山衆に命じる。

そこで、彼らは竹束を鉄砲の盾として穴を掘り進み、多くの犠牲を出しながら、ついに水の手を着ることに成功し、城方の士気は急速に消沈、ついには信玄の降伏勧告を受け入れて城を明け渡し、憲勝は北条方の捕虜となったのである。

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