戦国時代

織田信長の晩年の拠点「安土城」の謎

投稿日:

安土城は、織田信長が晩年に拠点とした城である。

1576年に築城が開始され、信長が天守閣に移ったのが1579年だが、それから3年後に焼失してしまい、わずか6年の短い命を閉じたのである。

 

安土城に関する文献資料

俗説によれば、本能寺の変で信長が討たれたことで混乱した信長の次男・信雄が火を付けたと言われているが、本当のところはよくわからない。

いずれにしても、短命だったことから、安土城がどんな姿や内部構造を持っていたのかは現在でもほとんどわかっていない。

一番詳しい文献資料は、実際に信長に城の中に案内されたルイス・フロイスの著書『日本史』であろう。

それによればこれまで日本で建てられたことのないような壮麗な七層の城と宮殿だったという。

 

安土城の絵図

絵図のほうは、信長は狩野永徳に『安土城図』を描かせてローマ法王に献上したと伝えられているが、残念ながら実物は未だに発見されていない。

現存する安土城図の最も古いものは『近江国蒲生郡安土城図』であるが、これが描かれたのは、安土城が失われて100年以上が経過した1687年のことであるため、あまりあてにできない。

そのため、安土城の全容を解明するには、発掘調査の結果を待つしか方法がないのである。

安土城の発掘が初めて行われたのは1940年のことであり、天守や本丸の礎石などが発掘されている。

 

安土城の発掘調査結果

その後、滋賀県教育委員会では、安土城を整備するために、1989年から20年計画で発掘調査を行うことを決め、現在では安土城に関するかなりの部分が解明されてきた。

1998年2月には安土城の天守閣のてっぺんに載っていたと推定される鯱のいち部が発見された。

発見されたのは胸びれの部分で、大きさは長さ14センチ・幅11.5センチ・暑さ3.3センチである、

金箔が残っていることから、当初は名古屋城のような金の鯱だったことがわかる。

ひれの付け根部分に二つの団子状の盛り上がりがあり、日本では見られないタイプであることから、南蛮文化の影響ではないかと推測される。

ちなみに、天守閣跡から出土した鯱としてはこの安土城が最古であり、織田信長が初めて天守閣に鯱を飾るという風習を創始したようだ。

1999年から2000年にかけては、安土城の主郭部である本丸・天守の発掘が行われ、本丸の礎石配列がはっきり確定し、これまで1つだと思われていた本丸は東西2つの建物を廊下状の建物でつないでいたことが判明した。

また、西側の建物の構造は、天皇の御座所である清涼殿と同じ構造であることがわかったことにより、ここが信長の居住空間ではなく、天皇を抑えるための「御幸の間」のある建築物であることがわかり、「信長公記」の記述の正しさを証明した。

-戦国時代
-,

Copyright© 日本の歴史を深く知る! , 2018 All Rights Reserved.